関口宏の一番新しい近現代史「日露戦争」を小論文の考えで見る

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小論文のテーマ

「関口宏の一番新しい近現代史」をご覧になって、「日露戦争の開戦のきっかけって何だったの?」「旅順攻囲戦や奉天会戦はどのような戦いだったのか?」という疑問を抱いていませんか?

日露戦争は、単なる軍事衝突ではなく、極東アジアの覇権をめぐる複雑な国際情勢の産物でした。

この記事では、義和団事件に乗じたロシアの満州進出から始まる開戦のきっかけ、制海権確保のための激戦となった旅順攻囲戦、そして最大規模の陸戦となった奉天会戦まで、日露戦争の全体像を詳しく解説します。

歴史の背景にある各国の思惑と利害関係を理解することで、現代にも通じる国際政治の本質が見えてきます。

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この記事を書いた人
飛田 弘一

小論文の独自研究家・指導者。

Amazonにて400部突破『小論文の手引き』の著者。

大学卒業後、書籍の誤字・脱字を確認する校正の仕事を経て、学生時代に小論文がまったく書けず受験で悔しい思いをした経験から、書店の小論文の参考書は延べ100冊以上を読み、また小論文の講座を30以上受講するなど、小論文の独自研究に没頭する。

そこで得た知見から、誰でも実践できる分かりやすい小論文の書き方を構築。

小論文が書けない人の気持ちを誰よりもよく分かる指導者を自任し、決して上から目線にならない丁寧な小論文の指導を心がけている。

飛田 弘一をフォローする

日露戦争の開戦のきっかけ

20世紀初頭、極東アジアをめぐって日本とロシアの対立が深刻化しました。その背景には、義和団事件に乗じたロシアの満州進出と、それに対する日本の危機感があったのです。

義和団事件でのドサクサにロシアの満州・旅順進出

義和団事件を機に満州全土を占領したロシアは、極東への野心を露わにしました。

ロシアはクリミア戦争での勝利後も、ヨーロッパ列強の牽制により黒海への自由な出入りを制限されていました。そのため、ロシアは東方への拡張を図り、シベリア鉄道の建設を推進したのです。

1900年の義和団事件という中国の内乱に際し、居留民保護の名目でロシア軍が満州に進駐しました。

しかし、事件が収束した後もロシアは撤退せず、旅順港を軍港として利用する権益を確保しました。これにより、日本海に面した軍事拠点を手に入れたロシアは、朝鮮半島への影響力拡大の足がかりを築いたのです。

義和団鎮圧後もロシアは満州、旅順に居座って、朝鮮北部に進出

義和団事件の鎮圧が完了しても、ロシアは約束していた満州からの撤兵を履行しませんでした。それどころか、満州に恒久的な軍事基地を設置し、朝鮮半島北部への勢力拡大を開始したのです。

ロシアは鴨緑江流域での森林伐採権を獲得し、朝鮮との国境地帯に軍事施設を建設しました。

さらに、朝鮮宮廷内のロシア派勢力を支援し、政治的影響力を強めていきました。

この動きは、日清戦争後に朝鮮における優越的地位を確立したと考えていた日本にとって、看過できない脅威となりました。ロシアの南下政策が本格化すれば、朝鮮半島全体がロシアの勢力圏に組み込まれる危険性が高まったのです。

中学や高校の日本史、世界史でさわりくらいには日露戦争のことを知りましたが、まさかこの当時朝鮮の国境付近までロシアが進出していたとは知らなかったです。

勉強不足か触れられなかったのか、記憶が定かでありませんが。

前回の「関口宏の一番新しい近現代史」(日露戦争前夜)で初めて知りました。

それは朝鮮半島に進出し、近いうちにロシアは日本の安全保障を脅かす脅威になるとの認識は、当時の日本からすれば当然だったでしょうね。

日本の利益線と衝突

1890年の帝国議会で山県有朋首相が提唱した「主権線と利益線」の概念が、対ロシア政策の根幹となりました。

主権線とは日本本土を指し、利益線は国境を越えた日本の安全保障上重要な地域を意味します。

特に朝鮮半島は、日本の利益線の中でも最重要地域と位置づけられていました。

山県は「主権線を守るためには、利益線を守らねばならない」と述べ、朝鮮半島の安全確保が日本の独立維持に不可欠だと論じました。

ロシアの朝鮮進出は、まさにこの利益線を脅かす行為でした。

日本政府は、ロシアの南下を放置すれば、やがて日本本土も脅威にさらされると判断しました。この理論的枠組みにより、朝鮮をめぐる日露対立は避けられない構造となったのです。

初めは外交で解決を図るも決裂、御前会議で対ロ開戦が決定

日本は当初、外交交渉による平和的解決を模索しました。

1903年から始まった日露交渉において、日本はロシアに対し「満韓交換論」を提示しました。これは、ロシアの満州における権益を日本が承認する代わりに、朝鮮半島における日本の優越権をロシアが認めるという妥協案でした。

しかし、ロシア側は朝鮮半島北部への進出継続を主張し、実質的にゼロ回答で応じました。

交渉の長期化は、シベリア鉄道完成によるロシアの軍事力増強を許すことを意味していました。

1904年2月、ついに日本政府は御前会議を開催し、平和的解決の限界を確認しました。

このままロシアの南下を放置すれば日本の安全が根本的に脅かされるとして、武力による解決が不可避と結論づけ、対ロ開戦を正式決定したのです。

しかし初代の内閣総理大臣を務めた伊藤博文をはじめ、日本の指導者や軍の上層部もこの戦争に勝てると思っていませんでした。「戦争になってしまった。できるだけのことをする」という心境だったそうです。

対するロシア側は開戦を引き延ばして軍備を増強することで、日本が戦争を諦めてくれるので、まさか日本側が宣戦布告などしてくるとは思っていませんでした。

伊藤博文は部下をヨーロッパに送り戦費調達や、また仲介役を担ってもらうためアメリカに働きかけるなど必死に戦争終結の方法を模索していました。

ただこのモデルケースがのちの太平洋戦争では全く生かされなかったのが、とても残念というか、戦争終結の見通しが立たないままロシア以上の膨大な工業生産力を誇るアメリカと戦争をしたなと、昭和初期の平和慣れした危機感の欠如だったのでしょうか。

「戦争になっても、とりあえず何とかなる」という成功体験だけが引き継がれた感じなのでしょうか。

代理戦争

日露戦争は、実質的には列強間の代理戦争という側面を持っていました。

日本は1902年に締結した日英同盟により、イギリスの支援を受けていました。イギリスはボーア戦争での消耗により国力が低下しており、ロシアの極東進出阻止を日本の軍事力に委ねたいと考えていました。

一方、ロシアはフランスおよびドイツの支持を得ていました。フランスは露仏同盟の関係から、ドイツはロシアの注意を西欧から極東へ逸らすため、それぞれロシアを後押ししました。

このように、日露戦争は単なる二国間の紛争ではなく、ヨーロッパの勢力均衡と連動した国際的な代理戦争だったのです。

各国の思惑が複雑に絡み合い、極東における覇権争いが世界規模の対立軸と重なることで、戦争の規模と影響がより拡大することとなりました。

制海権確保のための「旅順攻囲戦」203高地の戦い

日露戦争における最重要目標の一つが、ロシア艦隊の拠点である旅順の制圧でした。海上輸送路の安全確保と制海権獲得のため、日本軍は海陸両面から旅順攻略に全力を注いだのです。

ロシアの旅順艦隊が海上輸送にとっての障害

ロシアが1898年に遼東半島を租借し、旅順口を太平洋艦隊の主力艦隊の根拠地とした旅順は、日本にとって最大の脅威でした。

三国干渉により日本が放棄を余儀なくされた遼東半島の旅順港は、不凍港として年中使用可能な軍港でした。

日本海軍は、日本本土から大陸への海上輸送を脅かすロシア艦隊を無力化するため、旅順口攻撃を計画したのです。

満州での陸上戦を支援するため、大量の兵員と物資を朝鮮半島経由で輸送する必要がありましたが、旅順のロシア艦隊が健在である限り、この輸送ルートは常に攻撃の危険にさらされていました。

さらに、本国からバルチック艦隊が派遣されれば、両艦隊の合流により日本海軍は圧倒的に不利な状況に陥る恐れがありました。

海からの攻撃、港湾閉塞作戦を行うも失敗

日本海軍は旅順艦隊の無力化を図るため、まず海上からの攻撃を試みました。

開戦直後の1904年2月から、連合艦隊は旅順港に対する奇襲攻撃を実施しましたが、決定的な打撃を与えることはできませんでした。

続いて実行されたのが港湾閉塞作戦でした。三次にわたって行われたがいずれも旅順港を十分封鎖するに至らなかったのです。

この作戦は、老朽艦を港湾内に沈没させて航路を塞ぐという危険な任務でした。

廣瀬武夫中佐らの犠牲的精神で実行されましたが、ロシア軍の激しい抵抗と港湾の地形的特徴により、完全な封鎖には至りませんでした。

結果として、ロシア艦隊の行動を完全に封じることはできなかったのです。

港湾封鎖監視を行うも不十分との結論に至る

港湾閉塞作戦の失敗を受けて、日本海軍は旅順港の監視体制を強化しました。

連合艦隊(日本海軍の艦艇部隊の総称)は旅順沖に展開し、ロシア艦隊の出撃を阻止する警戒活動を継続しました。

しかし、この監視作戦にも限界がありました。荒天時や夜間における完全な監視は困難で、ロシア艦隊の一部が港外に脱出する可能性を排除できませんでした。

また、長期間の海上封鎖は艦艇と乗組員に大きな負担をかけ、他の作戦行動にも支障をきたしました。

さらに重要だったのは、バルチック艦隊の到着が迫る中、時間的余裕がなくなっていたことです。

これらの状況を総合的に判断した結果、海上からの封鎖だけでは不十分であり、陸上からの攻撃による根本的解決が必要との結論に至りました。

陸上から旅順を攻略して、ロシアの旅順艦隊壊滅を目指す

海上作戦の限界が明らかになると、日本軍は陸上からの旅順攻略を本格化させました。

1904年8月、乃木希典大将率いる第3軍が旅順要塞への攻撃を開始しました。

この作戦の最終目標は、要塞内の旅順艦隊を完全に壊滅させることでした。陸上からの砲撃により港内の艦船を直接攻撃し、修理施設や燃料貯蔵庫を破壊することで、ロシア艦隊の戦闘能力を根絶やしにする計画でした。

特に重要だったのは、港内を見下ろす高地を占領し、観測と砲撃の拠点とすることでした。この戦略転換により、旅順攻囲戦は海戦から陸戦へと主戦場を移し、日露戦争最大の激戦地となったのです。

ロシア軍は旅順を要塞化する

ロシアは港湾を囲む山々に本格的な永久要塞を建設していた旅順は、天然の地形を活かした難攻不落の要塞でした。

当初、要塞の建設は未完成で防御力に不安がありましたが、アナトーリイ・ステッセル中将の指揮下で急速に強化されました。

ロシア軍は山頂や尾根に堅固なコンクリート製の砲台を建設し、地下に弾薬庫や兵舎を設けました。

さらに、鉄条網や地雷原を配置し、多層防御システムを構築しました。これらの要塞化工事により、旅順は世界でも屈指の近代要塞となりました。

このロシア軍による旅順要塞は、後の太平洋戦争における硫黄島での戦いなど、日本軍の地下要塞構築の参考になったといわれています。

旅順は市街地と港を囲むように山々が連なっており、さながら天然の要塞であったという地形的優位性と人工的な防御施設が組み合わさり、日本軍の攻撃を阻む強固な障壁となったのです。

203高地の激戦、なぜ勝てたのか?

旅順攻囲戦の最大の激戦地となったのが203高地でした。この高地は旅順港を見下ろす戦略的要衝で、ここを占領すれば港内のロシア艦隊への直接砲撃が可能になりました。

日露戦争の旅順攻囲戦における、203高地の日露両軍の血みどろの戦いは、後に映画「二百三高地」としても描かれた壮絶なものでした。

1904年11月から12月にかけて、日本軍は203高地に対する総攻撃を実施しました。ロシア軍も死守命令のもと激しく抵抗し、双方に甚大な犠牲が生じました。

日露戦争は、国家同士の戦争としては初めて機関銃が本格的に使用され、日ロ双方で機関銃を大量配備して戦いました。

特にロシア軍は、近代機関銃の元祖であるマキシム機関銃を防御陣地に効果的に配備して使用することで、銃剣突撃してきた多くの日本兵をなぎ倒していきます。

守る側のロシア軍は、コンクリート製の陣地に機関銃を据え付け、その前面に鉄条網と地雷原を設ける近代戦を展開しました。

これにより日露戦争は、上記の戦法が多用された第一次世界大戦の前哨戦と位置づけられています。

銃剣突撃を繰り返す日本軍は苦戦し、そこで満州軍参謀長の児玉源太郎が旅順に赴き自ら指揮を執ることで、戦略を転換します。

彼は日本本土から陸揚げされてロシア軍陣地攻撃のために使用されていた28センチ榴弾砲の203高地への集中投入を指示しました。

28センチ榴弾砲はもともと海岸から敵の艦船を攻撃する大砲でしたが、旅順のロシア軍陣地攻撃にも効果的であることが実証されていました。

しかし散発的に使用することで、その効果が限定されていました。

児玉は、敵の山頂奪還を防ぐ目的も含め28センチ榴弾砲で一昼夜、15分ごとの砲撃を指示します。

そこにトンネルを掘削して地下からのロシア軍陣地の爆破と、203高地への小規模な部隊による絶え間ない突撃を繰り返させます。

その結果、歩兵の突撃のみでは突破できなかった突入口が開け、ロシア軍の要塞は陥落しました。

最終的に日本軍が203高地を占領すると、ここから観測所を設け、他の高地には28センチ榴弾砲の砲台を設置して旅順港内のロシア艦隊への砲撃が開始され、艦船の多くが撃沈されました。

203高地を抑えられ、もはや旅順要塞は裸同然となり、1905年1月1日、ついに旅順要塞は陥落したのです。

陸戦最大の戦い「奉天会戦」

奉天会戦は日露戦争における最大規模の陸戦として、1905年2月から3月にかけて繰り広げられました。

旅順攻囲戦で疲弊した日本軍が、国力の限界に迫る中で挑んだ決戦でした。

辛くも勝利していた日本は、国力の限界だった

日本は旅順攻囲戦での勝利を収めたものの、その代償は極めて大きなものでした。

三次にわたる旅順総攻撃では、ロシア軍の戦死・負傷の合計22,700名に対して、日本軍の戦死・負傷の合計は5~6万と膨大な犠牲を出しました。

長期間にわたる攻囲戦は日本軍の兵力と物資を大量に消耗させ、国家財政も限界に近づいていました。

軍需品の不足は深刻さを増し、追加の動員も困難な状況となっていました。このような状況下で、日本政府と軍首脳部は戦争の長期化を避け、早期講和への道筋を見つける必要に迫られていました。

日本はボロが出る前に一大決戦を挑み、講和に持ち込もうと考えた

日本の軍事指導者たちは、国力の限界が露呈する前に決定的な勝利を収める必要性を痛感していました。

満州軍総司令部はこの会戦を「日露戦争の関ヶ原」と位置付けており、ロシア軍に対して一大決戦を挑む計画を立てました。

敵に大打撃を与えて早期講和に持ち込むために、旅順を陥落させた第3軍を加えた全力での攻撃を決断しました。

この戦略的判断の背景には、これ以上戦争が続けば日本の国力が完全に枯渇してしまうという危機感がありました。

シベリア鉄道により送られてくるロシアの豊富な人的・物的資源に対抗するには、短期決戦による勝利が唯一の選択肢だったのです。

これは後の太平洋戦争におけるアメリカとの戦いにおける戦略とも一致していました。

ロシア軍の後退戦術、疲弊しきった日本軍が奉天を占領

奉天会戦は双方あわせて60万に及ぶ将兵が18日間に亘って満洲の荒野で激闘を繰り広げる大規模な戦いとなりました。

ロシア軍のクロパトキン司令官は、日本軍の攻撃に対して計画的な後退戦術を採用しました。

これは日本軍の補給線を延伸させ、疲弊させることでした。ただしロシア軍の方もこの時点で戦力を消耗しており、援軍がなければ反撃に転じる余裕はありませんでした。

ロシアでは奉天会戦が始まる前月に、国内で生活や待遇改善を求めて農民や労働者が起こした非武装のデモに軍隊が発砲する「血の日曜日事件」が発生しており、ここから反政府の動きが広がり帝政ロシアの足元をぐらつかせていました。

ロシアも「まだまだ余裕で戦える」という状況ではなかったのです。

一方、日本側も結果として大山巌指揮の日本軍25万が奉天を占領したものの、兵力・弾薬を消耗し尽くしました。

日本軍の勝利は形式的なものに留まり、ロシア軍は組織的な撤退によって主力を温存することに成功しました。

この戦いだけでは戦争全体の決着には至らず、最終的な勝敗は後の日本海海戦の結果に委ねられることになったのです。

講和の準備とバルチック艦隊が日本海に迫る

奉天会戦後の日本政府は、国力の限界を踏まえて密かに講和準備を進める一方で、ロシアから派遣されたバルチック艦隊との最終決戦に向けて軍備を整えていました。この時期は戦争と外交の両面で重要な局面を迎えます。

戦争継続を望む世論

日本国内の世論は奉天会戦での勝利によって戦争継続への熱狂的な支持に包まれていました。

欧米メディアの予測は「ロシア優勢」と「戦争長期化」が主流でしたが、日本国内では「日本の善戦」に焦点化した報道が行われました。

メディアは部数拡大を狙って戦争の美化に走り、国民は連戦連勝の報道に酔いしれて現実を見失っていました。

政府が日露の国力差という厳しい現実を公表しなかったことも、この楽観的な世論形成に拍車をかけました。

国民の多くは日本が圧倒的に優位だと信じ込み、ロシアからの賠償金獲得や領土拡張への期待を膨らませていました。

一方で内村鑑三はキリスト教の人道的立場から、幸徳秋水と堺利彦は社会主義の立場から戦争に反対したものの、こうした反戦・非戦論は少数派に留まっていました。

世論の主戦論一辺倒の状況は、後の講和条件への国民の激しい失望と怒りの土壌を形成することになったのです。

戦争継続力がもう無いことを知っていた明治の元勲たち

伊藤博文や山県有朋といった明治の元勲(げんくん:維新の功労者)たちは、表向きの勝利とは裏腹に日本の戦争継続能力が限界に達していることを冷静に認識していました。

国家予算の約6倍にもなる戦費は国庫を完全に圧迫し、外債依存度は危険な水準に達していました。

陸軍の兵員補充も困難になりつつあり、武器弾薬の生産能力も底をついていました。

これらの元勲たちは政府中枢で機密情報を共有しており、ロシアの豊富な人的・物的資源と比較して日本の国力差を痛感していました。

国民には知らされていない厳しい現実を把握していた彼らは、早期講和の必要性を強く感じていたのです。

講和の準備にとりかかる

明治政府は戦争継続と並行して、秘密裏に講和への道筋を模索し始めました。

アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領を通じた仲介工作が水面下で進められ、外交ルートでの情報収集が活発化しました。

しかし国内世論は連戦連勝に沸いており、講和交渉の準備は極秘に進める必要がありました。政府は戦争継続の姿勢を表向き維持しながら、実際には外交官や政府高官を通じてロシア側の意向を探っていました。

特に財政面での限界が明らかだったため、これ以上の戦争継続は国家破綻を招く可能性があると判断していました。

日本の指導層は、最後の決戦となる日本海海戦の結果次第で講和条件が大きく変わることを理解し、慎重な準備を進めていたのです。

後の太平洋戦争での政府や軍指導部の対応とは大違いですね。

迫りくる日本海海戦

バルチック艦隊(ロシア第二太平洋艦隊)の極東への長期航海により、日本は最後の決戦の機会を迎えることになりました。

この海戦は日本の運命を決する天王山として位置づけられ、敗北すれば制海権を失い戦争継続が不可能になると予想されました。

連合艦隊司令長官の東郷平八郎は、この一戦にすべてを賭ける覚悟で準備を進めていました。

政府と軍首脳部は、海戦での勝利こそが有利な講和条件を引き出す最後のチャンスであることを認識していました。

世論は日本海海戦での勝利を確信していましたが、指導層は万が一の敗北も想定し、その場合の講和条件悪化を懸念していました。

この海戦の結果が日露戦争全体の帰趨を決定づけることは誰の目にも明らかだったのです。

近代史は利害の一致・不一致で動いていた

日露戦争を含む近代史の展開は、各国の利害関係の複雑な絡み合いによって決定されていました。

日本とロシアの対立も、単純な軍事衝突ではなく満洲と朝鮮半島での経済的権益や戦略的価値を巡る争いでした。

イギリスは南下政策を進めるロシアを牽制するため日英同盟を締結し、アメリカは極東でのバランス・オブ・パワーを重視して仲介役を担いました。

各国は自国の国益を最優先に行動し、同盟や対立も利害の一致・不一致に基づいて形成されました。

この戦争では、ユダヤ系銀行家ジェイコブ・シフがロシアの反ユダヤ政策に反発して日本の戦時国債を引き受けるなど、経済的・宗教的な要因も複雑に絡み合っていました。

近代戦争は表面的な軍事行動の背後に、必ず複数の利害関係が存在していたのです。

たしかに今も国益ということを考えて、世界各国は自国の立ち位置を考えますが、日露戦争当時はもっとあからさまに自国の利益というものを第一に考えて欧米列強や日本は動いていたということですね。

近代戦も、必ず背景や理由があって起きている

日露戦争における日本海海戦は、単なる軍事衝突以上の複雑な背景を持つ歴史的事件でした。

旅順港に封じ込められた極東の太平洋艦隊を増援するためにバルト海艦隊から戦力を引き抜いて編成されたバルチック艦隊の派遣は、ロシアの戦略的判断の結果でした。

この背景には、ロシア皇帝ニコライ2世の戦争継続への強い意志と、極東における制海権奪回への期待がありました。

一方で日本側は、和平交渉を拒否していたロシア側を講和交渉の席に着かせる契機となる決定的勝利を必要としていました。

このように海戦の発生と結果は、両国の政治的・経済的な事情が複雑に絡み合った必然的な流れの中で生まれたものです。

こういった小論文の思考で背景を深く掘り下げることで、歴史の表面的な事実だけでなく、その根本的な原因と意義が明確に見えてくるのです。

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